私も履歴書  35|グレーゾーンという聖域。

 

 

日広は、これからの広告新時代を拓く=インターネット時代に必要とされる『新しい広告会社』を目指すのだ、という進むべき一本の道をはっきりと見い出すことができていました。もう疾るしかない。

ちょうどその気づきのあったのと同じ頃、その気づきのことを私の周りの先輩や同世代、、いろんな経営者の人がいたんで、よく議論しました。
「加藤よく考えろ」「今、大きく成長している企業があるのはルールのない業界だけだ」と。
パソナ、光通信、フォーバル、ソフトバンク、ミスミ、日本電産、東日本ハウス、ゴールドクレスト、フルキャスト、そういう会社、つまりめちゃくちゃ伸びてくる会社というのは、揃いも揃って業界ルールのない会社だと、ルールのない産業なんだ、というのです。
ルールがないというのはどういうことか、それはつまり業界団体、つまり勝ち組がまだ定まっていない業界。業界の歴史が新しすぎて、まだどうやれば大きくなれるかという定石がない産業だと。

そして翻って「雑誌広告の産業というのは、成熟した産業だったのだ」と気づかされたんです。成熟産業では、どんなに頑張っても先に上にいる業界リーダーの皆さんが業界のルールを作っているから、そのルールを変えない限りは動かない業界なんだということにも気づきました。即ち、ベンチャーを起すのなら、新しい会社を始めるのなら、すでにルールがあるところよりも、これからできる新しい市場を作る側、ルールメーカーになれる産業を自分で見つけなければいけない、と。

95年まで普通の雑誌広告会社だった日広は、特に99年以降、すっごく伸びました。
なぜそんなにも伸びたんでしょうか。それはインターネットはわけのわからないシロモノだったことが大きかったと思います。
世の中のものごとには、そして商いには白と黒があります。そして、その間にグレーゾーンがあります。
ここでいうグレーゾーンにあたるインターネットは、既得権益層の皆さんから「どうもわけがわからん、それは敵か味方か、彼らの利益の大半を占めるテレビやラジオを脅かすものなのではないか、あるいは自分たちのビジネスモデルそのものを否定するものではないか」とおおかた思われていました。
メディアや広告の世界だけではありません。多くの産業の主軸を担っていた既得権益層すなわち多くの大企業の人々は、インターネットはわけがわからん、それをやることによって自分たちの商売を貶めるんじゃないかと思っていたのです。
私のお客さんには、インターネット・サービス・プロバイダー(ISP)もいました。当時の私お客さんというのは名も知れぬ小さいところばかりでした

 

しかし、NTTはその事業自体を否定あるいは疑問視していました。なぜならば、それが自分たちの商売を脅かすものではないか、そもそも電話というものは通信時間と距離で料金をとられる。遠くにかければ料金がかかり、近ければ安い。たくさんつなぐと高くなり、ちょっとしかつながないと安い。それが今までの常識でした。
ベルの、エジソン以来の、通信のルールが、そういう業界団体のルールが残っていたんで、業界団体の決めたルールを凌駕するようのものが現れたら困る、ということですね、先の話になぞらえると。だから、そのルールに従わないものというのは、是か非かといえば非なんです。ですから、無視するしかないのです、そういう新しい商売はね。

私たちにとっての業界大手というのは、電通や博報堂でした。かたやネット広告をフィールドとした日広はたいへん成長しました。我々の当時のライバルはサイバーエージェント、セプテーニ、オプトでした。
しかし、なぜサイバーエージェントや日広が伸びたのかというと、大手が来なかった、ということです。非常に自由に成長できる産業なんだという最大の理由は、より大きなプレイヤーがイノベーションのジレンマに巻き込まれることを怖がって参入してこなかった、ということなんです。
日広が短時間で成長できたのか。もちろん僕がある程度、少しぐらい他と違っていたこともあると思います。社員がちょっと優秀だった部分があるとも思います。

 

でも、急成長の本当の理由はそれではありません。インターネット広告産業自体が、大きく伸びたからなんです。
つまり、追い風をつかむこと成長の波に乗ることというのが、企業の成長において最も重要なことなんです。ベンチャーとは産業全体が成長しているところでしか、成長できない、ということを私は再び強く感じたのです。
よく考えてみれば、インターネット以前も、ありとあらゆるベンチャーと呼ばれる会社は、新しい市場の作り手、担い手でした。すでに業界団体があるような産業が、すでにその業界の大手と呼ばれてるような会社があるところに戦ってはいけないんだということを私は知ったわけです。

日広という会社は小さな会社でしたが、僕はビットバレーと当時言われていた渋谷中心で活動していく中で、私と同じように、あるいは私よりももっと頑張った人で、東京渋谷でインターネットのベンチャーをやれば、大手の競合にならず、自由に堂々と成長できる新しいネットビジネスのマーケットに乗れるんだ、ということで100、300と多くの企業が東京渋谷に現れました。

そんなネット企業の創業者たちの渦、私はその雑多な中で、広告の商売をやったんですね。
そして僕らは、彼らがネットビジネスを大きくするにあたってよりユーザーを増やさなければならない!宣伝をやろう!という話を一生懸命つくりました。そしてビットバレーを軸にしたネットバブルがやってきました。日広が大きくなった背景には、こういったムーブメントに乗っかったことでお客さんがすごく増えたということもありました。

いちばん伸びた2003から04年頃は、年に200社以上もの新規得意先とのお取引がありました。そしてほとんど全部ベンチャー、新しい会社です。

なぜ取り合いにならなかったかというと、それは回収リスクがあったからです。電通や博報堂は、帝国データバンクで出てこないような新しい会社は、回収リスクが大きく取引をしないんです。でも日広は、その会社がやろうとしている商売の意味がわからなくても、リスクを取っても、この会社は伸びる、この会社は伸びないというのが見極めることができた。かたや旧来の広告代理店は、そもそもこのネット企業が何をしようとしているのかすらわからなかった。よくわからないのでビジネスができない=ネット企業の広告取り扱いに参入できなかった。そこがまた日広が成長できた理由にもなるのです。