私も履歴書  34|光明。

2022年2月18日

 

というのも、日広は98年から雑誌広告からインターネット広告に成長の機軸を移すことに成功していたのです。

 

96年、僕ら日広にてISP事業者向けの広告取り扱いに注力しだしたころ、既にアメリカから、まったく新しい広告の息吹が聴こえてきていました。

程なく無料インターネットサービスとして一世を風靡したハイパーネットの広告の取り扱いが始まりました。もちろん日広も広告代理店として名乗りを上げました。

さらに96年を前後してYahoo!Japan、アサヒコムといったインターネット・メディアが相次いで立ち上がっていきました。そう、そして急速にインターネットそのものが広告媒体になっていったのです。

 

98~99年にかけてISP業の競争の火が突如萎んでいったなかで、早々に手仕舞いし、インターネット広告にポイント集中した日広の売上が16億は9億に減ったのは、実に道理でした。

 

というのも雑誌広告を売ると軽くページあたりで100万150万で売れるところを、かたやネット広告は超ニッチ、めちゃめちゃ苦労してヤフージャパンでバナー広告を掲載しても、1週間、1ヶ月のせ続けても40万50万とかにしかならなかったからです。

 

もちろん生産性は激オチしました。僕は平日は毎日3~4時間程度しか床につきませんでした。いっぽうでインターネットはわけがわからない、ついていけないと社員もけっこう辞めました。少し焦りましたが、もう僕はネット広告経済圏の大成長を確信していました。

 

僕らがそれまでいた日本の雑誌広告の産業では買占めができました

どんな雑誌も裏表紙というのは1ページしかありません。電通、博報堂、すなわち既得権益層にいい雑誌のプレミアスペースは全部売約済みでした。僕は既にそのことに気づいていたんで、逆にインターネットの広告枠ももし買占めができるんだったら、ベンチャーの日広にもう勝ち目はない、と思っていました。

 

ところが創業間もないYahoo! Japanのページビューは、1日数十万PV程度。理屈ではその当時は全ての広告枠を買うことができます。ところが当時の現実は急成長しすぎて、来月の今頃はどれくらいのページビューがあるかもわからない、という状況でした。

 

これはすごいことです。それまでのメディアだと買占めができた。それは全体の量ってのが決まっていたからです。

ところがインターネットっていうのは膨張する、すなわち増え続けるので、すべてを買占めること自体ができない。

だとすれば、電博はおそらくある程度、買い占めようとするのを待つのでは、つまりインターネット広告の市場に参入してこないのではと思ったんです。

 

あともう1つ大きな事実がありました。
それは黎明期のインターネット広告産業が小さすぎて、生産性の工数が合わないこと。

われわれ日広のような2、3人から5,6人の小さな会社であれば、一生懸命やって成果があって生産性が上がればいいですが、たとえば電通さんは2万人従業員がいる中でがんばって売るぞとやっても、テレビ広告でひと受注で2000万円5000万というところが、ヤフージャパンのトップページの広告を売っても15万にしかないならない。
だから、ここは我々のベンチャーの独壇場になる可能性があると感じました。いや、ひょっとしたら大手広告会社は誰も取り扱わないのではないか、とも思いました。

日広が雑誌専門からネット系の広告会社へそろり転向したのは、
背景として、
「既得権者の厚く高い壁」...雑誌広告の椅子取りゲームが全部終わっているような業界だったこと。
そして売上の限界が見えている中で、自分で仕入れて売れるものを売り切って終わり、そういうビジネスとなっていたこと。
そして雑誌広告市場での新興ベンチャーの介入出来る余地も隙間も伸び代も、そして扱える広告枠も無かったからですが(雑誌広告の商いが上手く行ってて面白かったら転向しなかったでしょう)

同時に、インターネットは革命的な発明であり、広告を含むあらゆるコミュニケーションが、あらゆる商売が 変化を余儀なくされる と確信したからです。
また萌芽したばかりのネット広告はまだ黎明期で市場が小さすぎ、大手の広告会社と競合になり難い一方で、かつ爆発的な市場の伸びが期待できる
ことに希望を感じていました。
(更に枠の概念や進化の速度など、あまりにマス媒体と取扱いの勝手が違うことに加え、大手が確立している「儲けの仕組み」から外れており、大手の広告会社は取り組み難いのではないか、という推論もありました)
かたやネット広告の世界は当時始まったばかり。イス取るどころか自分でイス並べているような状態だったのです。

日広の原点は雑誌広告、さして深い意味もなく取り組んだ商売です。が、雑誌広告を売ってなければ、ネットの商機は見つけられなかったでしょう。
僕はインターネットに出くわして、ダイヤルキューネットワークに参加すべく上京した...あの坂の上の雲を取り戻していました。

 

 

1997年から99年は、僕の半生の中でも、最もあっという間に過ぎ去った、超ポジティブな狂い咲きの期間でした。

ヤフーの検索結果キーワード広告、msnの今日の特集サイト、ウイークリーまぐまぐのヘッダー広告、バリュークリック、サイバークリック、といったクリック保証型アドネットワーク、infoseek、goo、exicite!、LYCOS、といったヤフーを追うポータルサイトの広告、、、(写真は1999年の暑中見舞いはがきです。)

僕らは無我夢中になって、売りまくりました。そして、これまでの半生で、最も酒量が多かった年=呑みに行った夜の多かった期間のはずです。

この頃の写真がこれです。後ろにinterQの初期サービス用のモデムがずらりと並んでますね。