私も履歴書  33|ISP広告、百花繚乱。

2022年2月18日

 

 

1995年の初夏、大きな転機が訪れました。

 

その頃には、通常の販売促進の雑誌広告取り扱いと平行して、お得意先のフランチャイジーの募集、事業用のハードの販売の広告もパソコン雑誌に出稿手配していました。ASCII(アスキー)、Oh!PC(日本ソフトバンク)、日経CLICK(日経BP社)などが、まさにそうでした。

 

パソコン雑誌の版元は、音羽(講談社光文社)一ツ橋(集英社小学館)銀座(マガジンハウス)や角川書店といった大御所とは違い、新しく柔軟な会社が多く、日広のような泡沫零細代理店でも直接の取引口座を作ってくれていました。

そんなわけで、僕は老舗代理店を経由した大手版元の雑誌の廻し取引に閉塞感を感じていたこともあり、突破口を見出すべく、積極的に新手の版元に足繁く通っていたのです。

 

そこに登場したのが、マイクロソフトが年末に発売するというウィンドウズ95。そして、ほぼ同時にアメリカからやってくるという、新しい情報通信のオープンなネットワーク インターネットでした。これが商業用にも利用されはじめ、世界中と自由に通信ができるような時代が来る!と、パソコン雑誌に相次いで掲載されはじめました。

なんだこれ。 ピンとくるのに、そんなに時間はかかりませんでした。

 

なんという インターネット! 

この事実はパソコンオンチ、文系の僕にも、雷に打たれたような衝撃でした。

一目見て、一昼夜考えて、これから、このインターネットの時代がくる。まちがいなく新しいビジネスの風が吹く。直感でそう感じました。

そして、僕はだらだら続けていた会社を、初めて大きくしたい、と思ったのです。

 

心機一転、本社を表参道に移し、有限会社を株式会社にして、仕切り直して再スタートを切ったのは、直後の7月のことです。

インターネットというシロモノに対し、日々じわじわと「・・・これはダイヤルQ²の再来だ。いや、これは新しい産業だ」と確信を持つようになってきました。

僕らがダイヤルキューネットワークで為さんとした次世代の情報提供サービス=電話回線を使って情報を販売するビジネスと、インターネットはその仕組みに似ていると思いました。接続事業者であるインターネットサービスプロバイダー(ISP)に人気が出るのではないか、と感じました。

 

もちろん僕以外にも、そんなふうに考える人が数多くいました。ツーショットダイヤル業界の人たちも、その他のBBSなどの通信系サービスを行っていた事業者たちも次々とISP業務を始めていきました。

僕もISP産業が今後急成長すると読み、彼らの販促広告の取り扱いに大きく舵を切りました。IIJ、Asahiネット、インターキュー、ベッコアメ、リムネット、コアラ、3Web、WAKWAKインターネット、ZZZ、・・・

更にそれまで創業以来取り組んできた男性向けグラビア誌・成人向けコミック・レディースコミックなどのツーショットダイヤル販促の雑誌広告の商売の新規枠の営業を止めました。『インターネットをはじめる』ための雑誌の広告取り扱いに集中するためです。

 

世の中に、まさにインターネットをはじめよう!という狂想曲が鳴り響きました。

その潮流のパイオニアとなったのはアスキー脱藩組による新設会社インプレス発行のINTERNET Magazineでした。これに続けと、前述のアスキー(インターネット・アスキー他)、日本ソフトバンク(YAHOO!インターネットガイド他)、毎日コミュニケーションズ(インターネットファン他)、日経BP社(日経ネットナビ他)、宝島社(DOS/V USER他)らは一斉にインターネットをスタートするための雑誌を一斉に創刊しました。加えて、大手出版社やリクルート(あちゃら)も、更には同朋舎のWIREDや、ディジットのHOME PC日本版といったベンチャー出版社のネット系雑誌の広告も売れに売れました。まさに大創刊ラッシュです。

 

それらの雑誌が想定している広告主は、既存のナショナルクライアントではありません。インターネット・サービス・プロバイダー(ISP)のような、これまで存在していなかった新しい業種、サービスでした。そう、僕の読みは大当たりしたのです。

 

95~96年当初のISPには、黎明期にはそれこそ上述の草の根ISPと、(失礼ながら)ぽっと出のベンチャーしかプレイヤーがいませんでした。

 

ところが96年半ばから97年98年には、WINDOWS95搭載のパソコンやiMac、ネット接続用のルーターやモデムが売れまくり、実際に世の中がインターネット大ブームを迎えたあたりで、パソコン本体を製造していた情報家電メーカー自身が、購入時のインセンティブとして、或いはストックコミッション型のビジネスとして、ISPに注目するや、自ら事業者として本格的に運営に注力するようになったのです。ちなみに、こちらは当時、日広で制作していたinterQ広告です。

...So-net(ソニー)、SUNNET(三洋電機)、DTI(三菱電機)、Panasonic hi-ho(松下電器)。クローズドなネットワークとしてのパソコン通信から、インターネット対応に昇華したBIGLOBE(←PC VAN)、nifty(←nifty serve)も本格的にISP事業へ移行していきました。

加えて、当初はインターネット自体に懐疑的だった第一種通信事業者(キャリア)も、インターネットへの潮流が確実であることを観念したのか、手のひらを返すように、ISP事業に進出してきました。OCN(NTT東日本/西日本)、DION(第二電電)、ODN(日本テレコム)、NEWEB(KDD)ぷらら(NTTコミュニケーションズ)、、、

まさにISP産業はパンデミックさながらの百花繚乱状態となり、ネットスターター向け情報雑誌業界も入れ食い、広告入り放題、左団扇の濡れ手粟となったのでした。

 

*   *   *

98年から99年、はじまりの段階は終わりを迎えました。

やはり本気になった大手通信キャリアの営業力は凄かったのです。インターネット接続の一般化に伴って、、日本中の家電量販店が店頭で通信キャリア系ISPのプロモーションのためにスペースを割いていました。雑誌広告を出稿し新規の集客を行うという、それまで販促のプロセスは消えていきました。旗色がはっきりしだし、合従連衡と廃業が相次ぎました。あれだけ烈しかった競争は終わりを告げよう、としていました。

 

日広の売上は、98年には16億円あったのですが、実際翌99年には9億ちょいの年商にまで落ち込みました。あれだけあったISPの広告もツーショットダイヤルの広告も、取り扱いはもう殆どなくなってしまいました。しかし、僕はまったく不安ではありませんでした。いやむしろ勇気凛々、といった心境だったのです。