私も履歴書  27|ダイヤルQ²業態へのバッシング。

2022年3月20日

 

 

僕が大阪から東京下目黒に居を移して6か月経ち、5年通った関西学院大学商学部を卒業したのは、1991年3月のこと。

 

いよいよ本格的に、ダイヤル・キュー・ネットワークの管理職として頑張る!。それまでの大学生社員、リョーマとの兼務ではなく、これからは専従の部長として、やっていくのだ、というフンドシを締め直してました。

 

4月からの新配属の部下ととなった技術者2名含めると、僕の部署=コミュニケーションメディア(CM)事業部は社員だけで8人の大所帯となりました。いちばん年長の方は47歳!。17歳の高校生を含む3人のお子さんが居られる方でした。今の私よりもまだ年上です。

僕よりも年下の部員は、社員ではリョーマからの後輩である内田康則さん一人だけ。

 

1月より僕が管掌していたCM事業部は、当時のダイヤル・キュー・ネットワークの粗利益の7割を稼いでいた隠れた金看板でした。

総合型情報提供サービスを行っていたQネットセンターの方が露出も売上も大きかったのですが、情報提供会社さんへの支払いが原価に占める割合も大きく、利益ベースでは管掌事業のテレホンパーティ(混線型多人数通話サービス、当時はパーティラインという俗称が一般的だった)や伝言ボーイ(男女別のオープン型伝言ダイヤル)に大きく依存していました。経営上、非常に重要な部門を任されていたのです。

 

実はダイヤル・キュー・ネットワークは、そのとき既にかなり危機的な状況に陥っていました。

前年からダイヤルQ2サービス自体が、社会的な問題となっていたことは、僕もある程度は理解していました。

1990年、NTTの新サービス情報料金回収代行事業=ダイヤルQ²は順次全国に拡大していました。あっという間に年末にはサービス回線数が3万4000回線、情報提供の登録企業は2000以上となっていました。

 

批判が高まったいちばんの理由は、急成長したから、だったということだと思います。

 

世間の人々というのは、とにかく急成長そのものが怖い。ただ、わけのわからんものが膨張しているという状況、よくわからないけれど、とにかく「急に大きくなりすぎ、儲けすぎなのでは?」「このダイヤルQ²って本当は良いの?

悪いの?」「得体が知れない・・・」といった噂が世間に広がっていったことが怖れをよんでいたんだと思います。中味はどうあれ、急速に大きくなっていく状態そのものが怖いんです。

 

世間の普通の感覚でもって、「急成長しすぎで、けしからん」という、いわば防衛本能が働き、次第にヒステリックなまでに、その成長そのものに対し感情的に攻撃してきました。

 

実際にも、子供がアダルト情報を聴いたなどとして20万円を越える電話料金が請求されたり、NTTに提出した内容コンテンツは運営せず、番組審査が通ってから、番組を男性と女性が電話回線上でマッチングされる1対1の出会い系電話サービス「ツーショットダイヤル」に変えてしまう業者が横行していました。

 

世論の批判のたかまりをうけて、NTTは90年10月から「利用者が申請すればその回線ではダイヤルQ2の利用をできなくする」という発信規制を開始していました。

 

もっとも世に存在するダイヤルQ²サービスの番組内容は健康相談や、天気予報、投資情報、クイズや雑誌などに連動した音声による番組など健全なものが大半でした。

いわゆるアダルト番組の数は2割もありませんでしたが、Q²サービス自体のイメージは悪化し、国会やPTAにて議論・批判されるレベルまで堕ちていました。

 

ただ僕らは問題になるようなことはしてなかったので、僕は能天気にあら...大騒ぎになってるけど、これからどうなんだろうなぁ、と対岸でみていたんです。自社の事業はぜんぜん大丈夫だ、と思っていたたんですね。私たちのやっているサービスというのは、まともなものって自負もあったので。

 

対策としてダイヤル・キュー・ネットワークを含む専業数社が幹事となって、2月には「日本電話倫理協会」を設立し自主規制を始めるなどの動きもとっていました。

 

しかしながら世論の批判の波をかわし切れず、大企業は飛び火を恐れて番組提供を打ち切りはじめていました。これをうけて、91年の年明けからQネットセンターの売上は急速に落ち込みはじめていたのです。人気のある番組のコンテンツ提供者であった大手出版社やレコード会社からの解約申し出が相次いでいたのです。次第に、コール数も目に見えて減り、3月に入った段階でQネットセンターの事業規模はピーク時の半分まで落ち込んでいました。

 

世の中のネガティブキャンペーンの勢いは増していました。ダイヤル・キュー・ネットワークでは環境の悪化を受けて「当社がやっているのは健全な番組であり悪質業者の事業とは全く違うものだ」という意見広告やイメージ広告を、新聞や雑誌に打つ対策を業界誌やビジネス誌に打つなどしていました。

 

しかしながら批判を深刻に受けとめたNTTは、ダイヤルQ²事業の方針を完全に変更し、縮小する方向にでました。まず発信規制ができない旧式の交換機の地域については、4月以降、新型のデジタル交換機へ切り換えるまでの間、サービス停止を発表。更に情報提供者に対しても「サービスの健全な発展のための協力」を求め、応じない場合は3カ月後に契約を解除する方針を打ち出しました。

そして、あろうことか、それまで月末締めの翌月末払いだった情報提供者への代金支払いのサイトを、おそらく不良業者を排除する目的で、月末締めの翌々々々10日払いの回収サイトに変更することを決めました。今までは翌々10日で払っていた情報料金を、突然大幅に引き延ばし130日単位で支払うとしてきたのです。

 

公序良俗に反する番組を提供している会社は、殆どが零細企業、個人の運営でした。NTTはこの措置を施行しても大きな会社が潰れたりはしませんが逆に小さい会社は支払いを遅らせれば勝手に自然淘汰するんじゃないかと、そういう考えを持ったのではないでしょうか。この突然の変更で、思惑通りに不良業者が次々と潰れていきました。

 

僕らは、情報通信用のコンピュータの化け物みたいなものを何億円ものリースを組んで導入し、さらには全国5箇所のセンターにリースの機械も入れていました。そんな中で、急に今までより100日も延びてしまったわけです。

 

所詮は学生が作った零細業者です。この規制や変更は業者の番組内容の如何を問わず、あらゆる事業者に対して等しくかけられたものでしたが、リース枠一杯まで使って大規模な投資を先行していた僕らダイヤル・キュー・ネットワークにとってもかなり厳しい措置でした。

 

更にこの規制に被せて、NTTは青少年利用の防止や偽造テレカ等の対処のために、5月からの公衆電話からのダイヤルQ²の利用を停止を発表しました。

これは即死レベルの打撃。

ダイヤル・キュー・ネットワークの売上の40%は、公衆電話からのコールだったからです。

 

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<追記:その後のリョーマ>

1991年4月、ゴールデンウィークを前にダイヤル・キュー・ネットワークは実質破綻することになり、西山さんは同社の再建のために奔走することになります。そのタイミングに前後して、リョーマはセールス・プロモーション業務を旨としていた同業のC.S.E(大阪)と実質的な業務統合し、代表取締役社長を林圭介さんと交代しています。株式会社リョーマは翌92年9月に経営破綻。6年に及んだ歴史を閉じています。